赤穂浪士四十七士近松勘六
B-135-07-2
 近松勘六の墓  元禄14年 西暦1701年  西暦1654年(江戸時代)
 
「怨みぞ晴し給へと殿の墓前に額づく」(『赤穂義士誠忠畫鑑』)
 諱 行重 藩職 禄高250石
生年1670年 享年34才
部隊 表門
 細川家
家族 弟は奥田貞右衛門
 
勘六は、祖父以来の浅野家譜代である。
祖父伊看は、法眼位を持つ名医。
伊看は山鹿素行と親しく交わり、嫡子小右衛門行正は、素行の門に学び山鹿流の兵学を修めた。
勘六は、この小右衛門の嫡男に生まれた。
その一番上が奥田孫太夫の養子となった貞右衛門である。
勘六は、父小右衛門が素行の門弟であった関係から山鹿流兵学に通じていた。
内匠頭の刃傷事件が起こったとき馬廻、二百五十石であり、勘六は在府中であった。
江戸屋敷の引き渡しが終わるや、勘六は急遽赤穂に帰った。
赤穂開城後、内蔵助の命を受けて高野山にのぼり、内匠頭の供養碑を建立している。
その後、
勘六は祖先の地(近江国野洲郡の比留田村の近松本家)に身を寄せた。
元禄15年2月15日の山科会議の結果、江戸の急進派説得のため、
上方の代表を2名送ることになり、勘六は吉田忠左衛門とともに選ばれて出府した。
2人は2月21日に京都を出発し、3月5日に江戸に到着した。
早速、堀部安兵衛らの急進派の人々に会い、自重決議と内蔵助の意向を伝えた。
刃随露剣信士。
戻る