真宗木辺派 本山錦織寺 分譲墓地
滋賀県野洲市木部826

JR琵琶湖線 「野洲駅」よりタクシ10分 距離4.5km

「栗東I.C」・「竜王I.C」より約25分 「びわこ大橋」より約20分
錦織寺、浄土真宗木辺派錦織寺、親鸞聖人七百五十回御遠忌法要
永代供養墓 納骨堂 通信教育にて入門詳細について 
錦織寺錦織寺代二十二代 木邊圓慈御釈筆 額縁 錦織寺 寄進の案内
元禄8年(1695)錦織寺に納められた涅槃図 
木部の旧民家に保存されていた錦織寺歴代掛け軸、額
当派は、親鸞聖人のご足跡を残す唯一の御本山です。当派の御門主 木邊円慈上人は第二十二代の法燈を平成八年(1996~)年に継承され、今日に至っております。 
前御門主 宣慈上人(1969~1990)は、法務の傍ら天体望遠鏡の反射鏡を作る余技を持たれ天文学会においても「木辺レンズ」として高く評価されました。
 先々代(第二十代)御門主孝慈上人(1896~1969)は西本願寺 明如上人の次男で明治二十九年に錦織寺に御入山され、戦争前後の激震時代に大日本仏教会の代表として宗教法の成立にまた、自派の宗勢拡大に多大の功績を残され、大興上人と御呼び致しております。
 主たるお堂としては元禄十四(1701)年に再建された県指定文化財の御影堂、天保2(1831)年再建の阿弥陀堂、聖人が御逗留され、文久元(1861)年に再建された天安堂(毘沙門堂)、東山天皇より拝領の「御常の御殿」等々、元禄七(1694)年の火災で全焼後逐次諸堂が再建され今日に至っております。

親鸞聖人七百五十回御遠忌法要 ご滞在1235年(鎌倉時代)

錦織寺御歴代

平成元年の資料に基づく。
  • 宗祖 親鸞聖人
  • 第二代 如信上人 - 親鸞の曾孫。
  • 第三代 覚如上人 - 親鸞の玄孫(やしゃご)、本願寺三世覚如。
  • 第四代 存覚上人 - 親鸞の来孫(きしゃご)、覚如の長男。
  • 第五代 法林院殿慈観上人 - 存覚の四男「綱嚴」、慈空の養嗣となり、名を「慈観」と改める。
  • 第六代 功徳院殿慈達上人
  • 第七代 安楽院殿慈賢上人
  • 第八代 平等心院宮慈光上人
  • 第九代 楽寿院殿慈範上人
  • 第十代 究竟院殿慈澄上人
  • 第十一代 正覚院殿慈養上人
  • 第十二代 頓乗院殿慈教上人
  • 第十三代 速得院殿慈統上人
  • 中祖第十四代 不可説院殿良慈上人
  • 第十五代 功徳清浄光院殿常慈上人
  • 第十六代 無量寿院殿宅慈上人
  • 第十七代 成正覚院殿歓慈上人
  • 第十八代 不可思議院殿賢慈上人
  • 第十九代 如是相院殿淳慈上人
  • 第二十代 住最勝院殿孝慈上人 - 浄土真宗本願寺派第二十二世鏡如の弟。
  • 第二十一代 宣慈上人 - 「レンズ和尚」の別名を持つ、天体望遠鏡の反射鏡製作の名人。
  • 第二十二代 円慈上人
[錦織寺]
錦織寺(滋賀)末寺250
錦織寺の名は暦仁元年(1238)天女が錦を織る瑞夢を四条天皇に奏上し、天皇から「天神護法錦織之寺」という勅額を受けた事によると言う。本願寺三世覚如の長男存覚(1290~1373)の自伝『存覚一期記』に慈空を「本部開山大徳」としていることからみると、開創は南北朝の頃と考えられる。慈空は下総豊田庄(茨城県水海道市豊岡町付近)に起こった横曽根門徒の流れを汲む人で、のち存覚の子綱厳(1334~1419)が慈空の養嗣となって錦織寺を継いだ。真宗十派の中では高田門徒の系統が多いが、木辺派は唯一、横曽根門徒の系統に属する。 そののち、蓮如によって本願寺教団が発展するに際し、錦織寺七世慈賢の子勝慧(1475~1559)が蓮如に帰依するなど、門徒の多くが本願寺に吸収された。
寺院霊園
浄土真宗木辺派の本山


名前の由来は親鸞聖人が寺を再興した時、天女が下り蓮の糸で錦を織って献上したことから
「錦織寺」と名づけられました。JR野洲駅の北約3.4kmにあります。
   
宗旨宗派 真宗に限る(他派でも可)
経営主体 宗教法人 錦織寺
「浄土真宗木辺派の本山」
所在地 滋賀県野洲市木部826
面積  5尺角
アクセス JR琵琶湖線 「野洲駅」より近江バスにて「木部」下車、徒歩約2分

「栗東I.C」・「竜王I.C」より約25分

「びわこ大橋」より約20分
           現地での格安な墓石施工   展示品 見本 
石材施工一式 中国石 (50万程度)施工込み 日本石(80万程度) 
法名 年月日、文字掘り込み、施工30日
種類
面積(㎡)
(敷地購入)
3年間管理料(更新)
一般
5尺角
¥600,000
¥10000
墓地利用茗荷金(3年ごとに)¥1万  墓苑維持会協力金¥10万(1回のみ) 
入山茗荷金(1回のみ) 
¥6万
         
支払い合計¥77万
※上記の面積・区画以外にも様々な広さをご用意しております。
        墓地購入、墓施工のご案内    メール kdd002@kdd1.com まで

     錦織寺を支援するNPOボランテア 担当 田中 
077-589-2354   
                                お急ぎは
080-6161-6087
 
          
 
赤穂浪士四十七士
近松勘六 ゆかりの家  滋賀県野洲市比留田916

近松勘六ゆかりの家(近松家)滋賀県野洲市比留田916
TEL:077-589-2007 要予約
忠臣蔵で有名な赤穂四十七士の一人「近松勘六」ゆかりの家があります。
主君・浅野内匠頭切腹後、勘六はこの家に姿を隠し
のち大石内蔵助とともに討ち入りにのぞんだのです。近松家では今も勘六の
遺留品が残されています。

近松勘六石像 

「怨みぞ晴し給へと殿の墓前に額づく」(『赤穂義士誠忠畫鑑』)
勘六は、祖父以来の浅野家譜代である。
祖父伊看は、法眼位を持つ名医。
伊看は山鹿素行と親しく交わり、嫡子小右衛門行正は、素行の門に学び山鹿流の兵学を修めた。
勘六は、この小右衛門の嫡男に生まれた。
その一番上が奥田孫太夫の養子となった貞右衛門である。
勘六は、父小右衛門が素行の門弟であった関係から山鹿流兵学に通じていた。
内匠頭の刃傷事件が起こったとき馬廻、二百五十石であり、勘六は在府中であった。
江戸屋敷の引き渡しが終わるや、勘六は急遽赤穂に帰った。
赤穂開城後、内蔵助の命を受けて高野山にのぼり、内匠頭の供養碑を建立している。
その後、
勘六は祖先の地(近江国野洲郡の比留田村の近松本家)に身を寄せた。
元禄15年2月15日の山科会議の結果、江戸の急進派説得のため、
上方の代表を2名送ることになり、勘六は吉田忠左衛門とともに選ばれて出府した。
2人は2月21日に京都を出発し、3月5日に江戸に到着した。
早速、堀部安兵衛らの急進派の人々に会い、自重決議と内蔵助の意向を伝えた。
刃随露剣信士。
近松勘六 の墓
滋賀県野洲市木部 真宗木辺派 錦織寺の墓地にあります
錦織寺 077-589-2648
錦織寺、浄土真宗木辺派錦織寺、親鸞聖人七百五十回御遠忌法要
永代供養墓 納骨堂 通信教育にて入門詳細について 
錦織寺錦織寺代二十二代 木邊圓慈御釈筆 額縁 錦織寺 寄進の案内
元禄8年(1695)錦織寺に納められた涅槃図 
木部の旧民家に保存されていた錦織寺歴代掛け軸、額
真宗木辺派 本山錦織寺 分譲墓地
 錦織寺の門主
西暦1654年(江戸時代)
近松勘六 の墓  元禄14年 西暦1701年  西暦1654年(江戸時代)
諱 行重 藩職 禄高250石 生年1670年 享年34才 
部隊 表門
 細川家 家族 弟は奥田貞右衛門
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