錦織寺 錦織寺代二十二代 木邊圓慈 御染筆 額縁
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B-135-02 錦織寺 錦織寺代二十二代 木邊圓慈 御染筆 申し込み |
錦職寺のHPではございません 第3者の記載です
ご注意 物販購入は一部表示価格改定により異なりますそのつど社務所にてご確認ください
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印刷物です |
御釈筆 自筆 五十代限定 印刷字 錦織寺代二十二代 門主 表具代込み1本¥3万(右) \3万(左)
印刷 真中の掛軸 六字名語 南無阿弥陀佛 1本3万 納期5日
代引き可能 送料 1本¥1000 2本.3本¥1500 |
錦織寺の正式な発行物ではございません |
l メール 077-589-2648 FAX 077-589-5675 |
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御釈筆 錦織寺代二十二代 木邊圓慈自筆 |
本紙 御釈筆 自筆5万 真中の掛軸六字妙語 南無阿弥陀佛自筆 5万 |
表具代1本 ¥10.000(サイズ二十代 .三十代 五十代)¥15.000(七十代.)¥20000(100代)¥25.000(百五十代) |
サイズ 外枠 三十代 巾9cm 高さ24cm 五十代 巾12cm 高さ34cm 七十代 巾12cm 高さ34cm |
百代 巾18cm 高さ49cm 百五十代 巾24cm 高さ67cm |
↓ サイズを指定してください 何十代ですか?? 製作日数30日 |
例代 御釈筆 三十代 自筆¥50000+表具代¥15000=65.000 軸画の裏文字 ¥20000(無地) |
代引き可能 メール 送料 1本¥1000 2本.3本¥1500 |
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錦織寺 額縁申し込み申し込み メール
木邊顕慈 錦織寺代二十三 |
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黒額縁 サイズ 中 横 920mmX高さ 350mm ¥70.000 納期30日 大 横 920mmX高さ470mm ¥80.000 納期30日 |
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金額縁 サイズ 中 横 920mmX高さ 350mm ¥90.000納期30日 大 横 920mmX高さ470mm¥100.000納期30日 |
錦織寺代二十二代 木邊圓慈 額縁 自筆のみ ¥15万 表具込み¥25万
メール |
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見本 第十六代 無量寿院殿宅慈上人 1809年 文化6年
掛軸六字妙語 南無阿弥陀佛自筆
錦織寺代二十二代 木邊圓慈 御釈筆 ¥15万メール 納期30日 |
錦織寺と西本願寺との家系 |
↓
旧姓名・大谷尊行/西本願寺21世法主・大谷光尊次男
↓木辺派を継いで孝慈と改名。 |
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木辺孝慈
(こうじ) |
1881~1969/真宗木辺派錦織寺(きんしょくじ/滋賀県野洲市)第20代門主/
旧姓名・大谷尊行/西本願寺21世法主・大谷光尊次男/男爵/
西本願寺筆頭連枝であったが、明治27年木辺淳慈の養子となり、木辺派を継いで孝慈と改名。28年門主(真宗木辺派管長)となった。29年男爵。
生来の学問好きであり、多くの仏教学者について、仏教教義を学んだ。
大正2年、広島へ巡教、11年には真宗開宗七百年記念伝道に出るなど
地方巡教の旅を続けた。また、荒廃した錦織寺再興のため維持会財団を組織、殿堂を修復した。
著書に「宗祖の自行」「教行信証の大意」「御親教集」などがある。
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浄土真宗本願寺派第21世宗主大谷光尊(こうそん)浄土真宗本願寺派本願寺第22世宗主 大谷光瑞(こうずい)長男
真宗木辺派錦織寺(きんしょくじ/滋賀県野洲市)第20代門主木辺孝慈(こうじ)次男 大谷光尊次女九条武子 |
浄土真宗本願寺派第23世宗主大谷光照(こうしょう) |
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木辺宣慈
(せんじ) |
1912~1990/真宗木辺派錦織寺第21代門主、特殊光学研究所所長/本名・木辺成麿/
子供の頃から天文学に興味を持ち、住職修行の傍ら、戦争中、陸軍航空技術研究所の嘱託となり、日本でも数少ない天体望遠鏡の反射鏡磨きの専門家に。
世界でも五指に入る名人となり、“レンズ和尚”の異名で知られ、特殊光学研究所所長もつとめた。
昭和44年門主を継ぐ。昭和45年、吉川英治文化賞(第4回)受賞。
長男・木辺円慈が第22代を継ぎ、現門主をつとめる。 |
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ご参考までに 家系↓ 西本願寺 |
大谷光尊
(こうそん) |
1850~1903/浄土真宗本願寺派第21世宗主/法名・明如(みょうにょ)/
20世宗主光沢(広如)の五男/
四男三女の父[母は三女・義子のみ正妻・枝子(しげこ/心光院)、他は側室・お富士の方(円明院)]/
明治4年父・光沢の死により宗主を継承、明治5年島地黙雷・赤松連城らを海外に派遣、彼らの補佐により、明治初年の政府の宗教政策に重要な位置を占めた。
明治政府の教部省の大教正となり、神仏合同大教院に出仕したが、神道優先の大教院から真宗の四派で共に分離、教団の宗制・教育制度の近代化をはかり、財政改革を行い、刑務所教誨・軍隊布教に当たるなど、本願寺教団の近代的発展の基礎を築いた。
◆「西本願寺第二十一代門主 明如上人抄―幕末明治期の仏教を救った男・大谷光尊」丹波元 |
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嘉永3年(1860)2月5日~明治36年(1903)1月18日
安政4年九条尚忠の養子となり、万延元年11歳の時、剃髪して新門跡光威(徳如)の付弟となり、新々門跡と称し、即日法眼に叙せられ、大僧正に任じた。
父光沢・兄光威を助けて国事に努めた。元冶元年3月朝命により亀山帝の山陵修復、慶応3年賀茂川荒神口に新橋を架け、またしばしば朝廷に献金するなど、一門末徒に対して常に尊王を諭した。明治元年3月明治天皇が大坂に行幸すると、先発して行宮を護衛した。4年8月光沢の遷化により、10月家督を相続し、法主となる。時に年22。
6年真宗四派管長の職に就き、以後本山改革や宗制・寺法の改定、宗門教学の振興、国内・国外での布教、慈善活動に献身して、生涯皇室と密接な関係を持った。
年54没。
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大谷光瑞
(こうずい) |
1876~1948/浄土真宗本願寺派本願寺第22世宗主/法名・鏡如/
21世宗主光尊の長男/妻・籌子(かずこ)貞明皇后の姉(九條道孝三女)
父・光尊の死により明治36年宗主を継承。
中国・インドの仏蹟を歩き、欧州に遊学するなど中央アジアでの探検活動が知られる。
神戸六甲山中腹の別邸に住み、教団の近代化すすめたが、3回にわたる西域探検隊をはじめとする教団事業の出費のため多くの負債をつくり大正3年、西本願寺疑獄事件を契機に退任。
引退後は、講演や中国・南洋・トルコなどで農園を経営し、海外で生活をおくる。
第二次大戦期には、近衛・小磯両内閣の参議・顧問を務めた。
◆著書・関連本
「大谷光瑞の生涯」津本陽 |
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明治9年12月27日~昭和23年10月5日
西本願寺第23世門主。 九条武子の兄。
宗政の刷新・学事の興隆・人材の養成に尽くした。
明治35年から43年にかけ、三次にわたって大谷探検隊を中央アジアに派遣し、シルクロード・西域文化研究に関する貴重な資料を収集した。
女学校名誉校長籌子夫人が急逝した後、大正元年12月には甲斐駒蔵に代わり京都高等女学校・京都裁縫女学校設立者となる。 |
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大谷光瑞 おおたに こうずい
明治9年12月27日~昭和23年10月5日(1876~1948) |
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京都生まれ。宗教家。10歳で得度、幼名峻麿、法名鏡如、諱光瑞。明治36年(1903)父光尊の死により浄土真宗本願寺派本願寺(西)22世門主となる。
明治35年(1902)から大正2年(1913)にかけて3次の中央アジア探検隊を派遣。敦煌、トルファン、ローラン、チベットなどを探検し、収集品の整理研究のほか著述、講演、教育、印刷などの事業に力を注いだ。14年(1925)門主を辞す。
太平洋戦争中には内閣顧問などを努めた。夫人は貞明皇后の姉、歌人の九条武子は実妹。
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九条武子 |
1887~1928/大正期の歌人、慈善事業家、西本願寺仏教婦人会会長、東京真宗夫人会会長/
/大谷光尊次女/
明治42年、男爵九条良致とと結婚。翌年夫とともに渡欧するが単身帰国、以来、10余年独居生活。幼少から歌を習い、大正5年佐佐木信綱に師事し、「心の花」に参加。
憂愁の情や孤閨哀感を歌い、名家の女流歌人として世間の関心を集める。
歌集「金鈴」「薫染」「白孔雀」、歌文集「無憂華」、戯曲「洛北の秋」
◆著書・関連本
「九条武子―その生涯とあしあと」籠谷真智子
「九条武子―北の無憂華」谷川美津枝 |
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九条武子(くじょうたけこ)
1887(明治20)年~1928(昭和4)年
大正から昭和時代前期にかけての歌人。
1887(明治20)年10月20日京都・西本願寺第21代宗主・明如上人大谷光尊(こうそん)の次女(第6子)として西本願寺に生まれる。生母、藤子は光尊の側室で士族紀州藩松原有積の長女。
1909年、横浜正金銀行(東京銀行【現三菱東京UFJ銀行】の前身)勤務の男爵九条良致(よしとも)に嫁ぎ、麹町区(千代田区)三番町の九條邸へ移る。
同年、夫が同銀行ロンドン支店勤務となったため渡英するが、武子だけ1年半で帰国。
1916年に佐佐木信綱(のぶつな=1872~1963。三重県生まれの歌人・国文学者。温雅清新な歌風で、代表歌集に「思草」「豊旗雲」がある。また、万葉集の研究に功績を残す)に入門、歌誌『心の花』に歌を発表する。
柳原白蓮(やなぎはらびゃくれん。1885~1967。東京生まれの歌人。歌集「踏絵」「幻の華」、自伝的小説「荊棘の実」などがある。戦後は平和運動にもかかわった。大正天皇生母の柳原愛子の姪にあたる)、新橋の芸者江木欣々(えぎきんきん)とともに「大正三美人」の一人に数えられる才色兼備の麗人として有名。
1920(大正9)年に著した、10余年間の外国勤務の夫を待ちしのぶ、清らかで深窓(しんそう=上流階級の娘などが家の中で大事に育てられ、世のけがれに染まらないで大きくなる)の情操(じょうそう=最も複雑で、高次の感情)を吐露(とろ=心の中に考えていることを、率直に述べること)した歌集『金鈴(きんれい)』によって世に知られた(同年12月6日、10年ぶりに夫が帰国する)。
同年、京都女子高等専門学校(京都女子高専。現京都女子大)を創設する一方、仏教婦人会連合本部長として社会事業や女性運動においても活躍する等、
西本願寺信徒の尊崇(そんすう=とうとびあがめること)を一身に集めた。
1923(大正12)年9月1日の関東大震災で自身も被災するが一命を取りとめ、全壊した築地本願寺の再建、震災による負傷者・孤児の救援活動
(「あそか病院」などの設立)などさまざまな事業を推進した
1928(昭和3)年2月7日、敗血症のため原宿の磯部病院にて死去。享年42歳。
歌文集に『無憂華(むゆうげ)』(1927)、歌集に『薫染(くんぜん)』(1928)
、『白孔雀(しろくじゃく)』(1930)があり、また、戯曲『洛北(らくほく)の秋』は1925年11月帝劇で上演された。
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大谷光照
(こうしょう) |
1911~2002/浄土真宗本願寺派第23世宗主/法名・勝如/
◆著書・関連本
「『法縁』抄―勝如上人の九十年」 |
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大谷光真
(こうしん |
1945~/浄土真宗本願寺派第24世門主/法名・即如/
全日本仏教会会長を三度務める。全国教誨師連盟総裁。
著書に「願いに応える人生」「さとりと信心」「まことのよろこび門主法話集」
(以上、本願寺出版社)などがある。
◆著書・関連本
「世のなか安穏なれ―現代社会と仏教」
「朝には紅顔ありて」 |
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大谷光真(おおたに・こうしん)
浄土真宗本願寺派西本願寺門主
1945年、京都市生まれ。東京大卒、龍谷大、東京大大学院修士課程修了。
全日本仏教会会長を3度務めた。布教活動のほか福祉活動などにも尽力。
著書にベストセラーになった「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて」がある。 |
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